榊 亮三郎

 此の地方は、地名から申しましても山岳がちの地方ではありますが、何分にも熱帶地方でありますから、非常に天惠厚き地方で、産物は豐饒であります。中にも栴檀、沈香、胡椒等の香料の産出は全世界に比類なく、中世印度の文學にもマラヤの栴檀と云うて讚歎いたしてあります。またマラヤ國では、ブヒラ(Bhilla)族の主婦は飯を炊くに伽羅栴檀を薪に用ふるなどの諺があります位で、其の産出の多かつたことはこれでも知れます。其の外、米、ゴム、椰子油などの産物は夥しく、古から有名でありますが、昔も今も造船に缺くことの出來ぬテイク(Teak)と云ふ木材の産地でありましたから、レバノン(Lebanon)の山の松柏材で昔のフヱニキヤ人が船を造り、航海者として有名であつたごとく、此の國はテイク材の産地であつたから、造船術も發達し、人民は航海の經驗と知識がありましたから、金剛智三藏が將軍米准那の舟師にとりかこまれて支那に向はれたことは、大いに理由のあることであります。

皇帝には、十八人姫君があつて其の中第一第二の姫君は、早くなくなられ、第三の姫君は、裴家に降嫁せられた、裴家は、李唐の先祖が兵を晋陽に起して以來の佐命の臣裴寂の後である、第四の姫君は、昇平公主ときこえさせて、郭家の瞹と云ふ息に降嫁せられたが、この瞹と云ふ人の父は有名な汾陽王郭子儀で、素と身分は卑くかつたが、玄宗皇帝の御宇、天寶の末つかた、安禄山の大亂に、哥舒翰や、李光弼などと共に賊を討し、一旦傾覆せんとした李唐の天下を囘復した功臣で、王に封ぜられた人であるから、無論、息の嫁に天子樣の姫君を頂戴したとて、家柄には不足はないが、どういふものか息と昇平公主とは、夫婦仲はよくない、一方では皇女であつただけに、きてやつたと云ふ風なこともあつたであらふし、一方では、父の功勳を鼻にかけて居たこともあつたらふし、しばしいさかいをしたものと見える、あるとき、いさかひの結果婿さんの郭瞹の方では、云ふことに、こと缺いて公主に對し、御前は、おやぢが天子であると云ふのを恃むのか、自分のおやぢだつて、王さんだから天子に近い、ならうと思つたなら、なれないことはないのだと云つた、嫁さんの公主は、ぐつと癪にさはつて、いきなり、參内して、代宗皇帝に申し上げた、これをきいて、驚いたは、舅の郭子儀で、さなくも、公主を震はし、一門の榮華は世人の嫉視の中心となつて居ることは知つて居るから、謹愼の上にも謹愼して、愛嬌を諸方にふりまいて、なるべく、亢龍の悔なきやうに、心配して居るやさき、こんなことが、湧いて來たから、早速、忰の瞹を捕へて牢に入れ、ともかくも、朝廷の處分を待つて居ることゝし、自から御詫のため、天子に拝謁した處が、これはまた案外で、天子の方では、郭子儀に向ひ、莫迦か、つんぼでなくば、しふと、しふとめにはなれない、こどもたちの痴話喧嘩は一々とり上げるなと、仰せられた、實に捌けた申し條で、御天子樣が、自分の女子を臣下にかたづけられても、これぐらゐに捌けねば、甘くゆかぬものである、代宗皇帝だつて、決して寛仁大度の君主でない、隨分在位十八年の間には、權臣を殺し勢家をも滅したこともある、然るにかう捌けて出たところを見ると、子を思ふ親心に、貴賤の別はないものである、女子もつた親は、御天子樣でも、嫁入り先きへは、遠慮をせねばならぬ、まして、下々のものが、娘をやり、婿をとり、自分達はしふとしふとめとなつて、圓滿に行くには、餘程遠慮をせねばならぬ、これがつらいことで、わけて、女子の兩親は、辛抱の上に、辛抱をせねばならぬことゝ思ふ。

大師が、惠果の學法灌頂壇に上り、大悲胎藏大曼荼羅に臨んで、花を抛ち、偶然、眞中にある毘盧遮那如來の身上に中てられた、これは、不空三藏が、金剛智三藏に就きて、弟子となつたときも、金剛界大曼荼羅に對し此の抛花の法を行つて居りますが、これによりて、師の金剛智が、不空の人物を試驗し得て、他日大に教法を興すべき人であることを知りましたことは、宋高僧傳に見えて居ります、惠果も、大師に對して、同一の試驗を二回せられたのである、然るに二回とも、毘盧遮那佛の本體に花を中てたので、二ヶ月以内に傳法阿闍梨の位に上るべき、灌頂を受けられたのであるが、俊英の士が明師に遇ふた程、世の中に幸福なものはないと思ふ、しかし、これによりて、大師の身には、大唐天子の歸依する密教を、扶桑の東に傳へねばならぬと云ふ責任が、懸つたのである、身は、物外の一沙門であるも、法は、當時東方亞細亞に流布して、大唐天子すら歸依せられて居る法である、從つてこれを日本に傳ふるにしても、匹夫匹婦にのみ傳ふべきでない、閭巷の小人、隴畝の野人にのみ傳へて、甘んずべきではない、かくのごとくんば、惠果和尚の寄託に辜負する次第であり、又遠くは、金剛智三藏や、不空三藏の法統たるに耻づる次第である、苟も責任を解し、師恩の渥きに感謝することの出來る人は、必ず、傳燈阿闍梨の位に上られた大師の双肩には當時、萬鈞の重石が懸かつた感をせぬものはあるまいと私は思ふ、私かに大師當時の御心事を想見するに、是非とも、此の法を日本に傳へて、上は、日本の、天皇陛下から、下は、萬民に及ぶまで、此の法の歸依者となして、日本の國家の鎭護としたいものであると思はれたに相違ない、又惠果自身が、大師に對し、期待した所は、實に此の點にあるのである、現に臨終の遺言にも、義明供奉、此處而傳、汝其行矣、傳之東國と云はれて居る、たゞに惠果の期待したのみならず、傳法阿闍梨の位に上つたとき、その齋莚に列した青龍寺や、大興善寺などの、五百の大徳は、皆これを期待したのである。