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10代向けの安くて可愛い服が通販で買えます

10代女性向けのファッションアイテムが買えるリアルショップというのは都会でないとあまりないような気がします。
田舎住みの人は近所におしゃれなショップが無くて困っている人も多いのではないでしょうか。
かといって都会までいつも買い物に行くのは大変ですね。
わざわざ遠出をしても気に入るショップが見つかるとは限りませんし。

こういったことに悩んでいる人にはネット通販をおすすめします。
ネットならスマホが1台あればいくらでも通販サイトをチェックできます。
電車に乗っている時や夜寝る前などちょっとした合間の時間を使って簡単にショッピングができます。
10代女子向けのおすすめのファッション通販サイトに関しては、最後におすすめショップが一覧になっているサイトを紹介しておきますので参考にしてください。

ここでは一つだけ10代向け人気ショップを紹介します。
GRL【グレイル】という通販サイトです。
通販だけで営業しているショップですが10代~20代の女性に絶大な人気があるファッション通販サイトです。
人気の秘訣はやはり値段ではないでしょうか。
とにかく安い服ばかりを扱っています。
それでいてシャツやボトムスにとどまらず、アウターやバッグまでそろっています。
ファッションの系統としてはとにかく「流行の可愛い服」というポイントを抑えた品ぞろえです。
ショップ内には販売アイテムを使ったコーディネート例の写真も豊富に掲載されていますので、コーデに自信がない人でもモデルさんの着こなしを真似すればすぐにおしゃれになれますよ。
通販で初めて服を買うなら、まずはGRL【グレイル】をおすすめします。
参考サイト:GRLなら10代向けの安くて可愛い服が通販で買えます

<10代女子向けファッション通販ショップが紹介されている参考サイト>
10代女子に人気の安くてカワイイ服が買えるファッション通販サイト

出来てしまったシミ用のクリーム

「紫外線と加齢の影響でシミができてしまった!」
「気になるけど病院に行くのはちょっと・・・」

そんな人に試して欲しいのが処方箋なしで買えるシミ用のコスメです。
シミ用のコスメというとファンデーションのようにシミを隠すものを想像するかもしれませんが、シミ自体を薄くして目立たなくするためのコスメというものもあります。
例えば「アンプルール ラグジュアリーホワイト コンセントレートHQ110」というコスメです。

コンセントレートHQ110は高濃度ハイドロキノン配合のコスメなので、昼間に比べて紫外線の弱い夜にのみ使用します。
顔全体に塗るのではなく、気になるシミ部分にピンポイントで塗ります。
使用期間中の昼間には日焼け止めや帽子、日傘などを駆使していつも以上に紫外線カットを心がけてください。
ひとつで1ヶ月半使えるようですが、公式サイトでは税込みで10800円なので結構高価ですね。
ハイドロキノン配合クリームを初めて試す人が最初に買うにはちょっと躊躇してしまうかもしれません。

参考:できてしまったシミにコンセントレートHQ110

ハイドロキノンは肌に対する影響が強いので、肌に合わない人もいます。
また、白斑と呼ばれる肌の色が白く抜けてしまう副作用が起こる場合もあります。
そういうこともあり、顔に対して本格的に使う前に腕などの目立たない場所に試し塗りをするパッチテストを行う必要があります。
そして前述のように普段以上に紫外線対策を行わなければいけません。
レーザー治療や病院への通院に比べれば気軽に試せるとは思いますが、ちょっと面倒な部分もあります。

宮本百合子その2

 秋田、山形辺は、食糧危機がひどくなってから、主食買い出しの全国的基地となって来ている。私の乗っている汽車にも、きっとそういう用事で出て来ている各地の旅客がいただろう。その人々は、この一望果てない青田を見て、そこに白く光った白米の粒々を想像し、価のつり上りを想像し、満足を感じていたかもしれない。けれども、私は、行けども行けどもつきない稲田の間を駛りつつ、いうにいえない心もちがした。これほどの稲、これほどの稲からとれる米。それを果して、私たちは単純に自分たちの食糧と考えることが出来るのだろうか、と。
 これほどの広い地域をみたす日本のこく倉の稲田は、つまるところ、現在の世の中のしくみでは、やはり一つの最も投機的な商品ではないのだろうか。もし、この広大な稲田全体が、いつわりない農民の生産として、それを作る農民の生活にもかえってゆくものならば、どうして、秋田、山形の農家はこんなに小さい屋根屋根の下にかがまっていて、しかも地主らしい堂々たる家構が見当らないのだろう。一坪でも、そこから米を産出する稲田の真中に、大きい面積をつぶして住居を立てるほど地主たちは愚かでないという証拠である。彼等は多く都会に家をもっているのだろう。小作としてどうしてもそこで働かせておかなければこまる農民の住居は最小限において。家の小さいことは地積の関係ばかりでなく、代々この地方の農民が、決して、祖先からの骨をこの土地に埋めて来た稲田から、地主のように儲けたことは唯一度もなかったことを告げている。

 彼はカフスの奥から純白な麻の手巾を出した。そして、眼鏡を脱し広い額やうるんだ眼を一どきに拭き廻した。
 高畠子爵は充分の満足を湛えた落付きで日下部の傍に立ち、しっとりと重い袂をゆすって葉巻の灰を落した。
「それ程に買って貰えれば私も大満悦です。――これには一つ插話があるのでね」
 子爵は皿についていたあるかないかの塵を指先でとった。
「日本にはまだ真物のマジョリカ、まして、ジョルジョの作なんか恐らく一点も来ていますまい。ざらな商人の手に負えないからでしょうな。これは一昨年巴里に行った時、羅馬まで遠征して掘り出して来たのです。
 ほら、あのサン・ピイエトロからずうっと右よりに行った処にある万神殿ね、あの横通りをぶらぶら歩いているうちにふと穢い婆さん一人で店番している処で見付けたのです。――勿論羅馬に行ったのも、その蠅の糞だらけの飾窓に怪しげなマリアの木像と並んでいる皿が目に止ったのも悉く偶然です。見るとどうもただものでない。下等な婆さんが戸口の腰架で豆か何かむいているのに出させて見ると、全く驚きました。いい塩梅に巴里を出る少し前或る有名な蒐集家の所蔵品を見ていたので大体の見当はついたわけなのです。が、さて価を訊く段になるとね。ハハハ」
 高畠子爵は、思い出しても愉快そうに笑いながら、彼として稀しい多弁で話しつづけた。
「あの心持は今考えてもおかしい。出さきだから持ち合わせはすっかりはたいても高が知れているのですからな。実にこわごわ訊いた訳です」

 金色の日光がキラキラと金粉を撒くように降り注ぐ明るみの中で、嬉戯(きぎ)する子供等と、陽気な高声で喋りながら、白く肥った腕を素早く動かして、張りわたした綱に濡れた布を吊る彼女の姿は、どんなに彼の心を悦ばせたことだろう。一足毎に大きなかごを傍へ傍へと引寄せながら、上下する体の運動につれて、愉快な小唄を口誦む彼女。跼(しゃが)む機勢(はずみ)に落ちかかる後れ毛を、さもうるさそうに手の甲で掻き上げながら、ちょっと頭をあげて大きく息をする彼女。そこには若い母親の豊饒な愛が、咽(む)せるほど芳しく漂っている。見馴れた光景でありながら、その家庭的な情景に逢うと、彼は湧き上る感謝を圧えることができなかった。よき家である。よき妻や子等である。わざと木影に隠れて、我れともなく恍惚とした父親を真先に見つけた子供達が、弾む小毬(こまり)のように頸や胸元に跳びつく頃は、微風に連れて雲のように膨れたり萎んだりする白布を背景にして、眩ゆそうに額際に腕を挙げたマーガレットが、血色のよい頬に渦巻くような笑を湛えながら、“Halloo dear”と野放しの声を投げる。
 質素な木綿着物に包まれた彼女のほっそりとした体の周囲からは、やや田舎めいた、清潔な快い糊のにおいがプント立ちのぼるだろう、濡れて光る双手、小さい汗のために水蜜桃のような顎――あらゆるものが彼女の母性(マザーフット)を囲んで耀くように見えた。壊れかけた玩具も、磨かれた家具も、すべてが彼女の影を受けて始めて、活々として見えるようにさえ思われるのである。
 そういうとき若い良人のWは、涙が出るほどの悦びを感じずにはいられなかった。しかし、その悦びは、決して今のようなものではない。何と云ったら好いだろう。ちょうど、仕合わせな、可愛がられる子供が、髪の毛を透して母親の慈愛に満ちた寵撫(パット)を受けるときのような心持である。その膝に靠(もた)れてそのまま眠ってしまいたいような信頼である。「我等の母」に対する尊敬ともいい得る感激なのである。

宮本百合子

 私がアメリカにおりましたのは僅か一年半ばかしのことで、別にたいした感想もありません。が、向うへ行く前までは家庭にばかりいて、本当の世間というものを直接に余り見たことのない私には、それがたとい短かい一年半にしてもこの「世間を見て来た」という点に於いてよいことであったように思われます。そして、以前とは多少、物の見方や考え方なども自分ながら変って来ていることにも気付きますが、併し、そんなことを長々と申しましたところで、それは私自身のことで、この雑誌の読者の方にはわかり悪くもありましょうし、また興味もありますまいかと思われます。そこで、内的な私自身のことをお話するよりも、もっと一般的な意味で、私の見て来た彼方の同人雑誌のことをほんの少しだけ申してみましょう。
 彼方でもやはり日本と同じように、『文章倶楽部』のような雑誌もありますし、また『奇蹟』とか『異象』とかいうような同人雑誌も沢山あります。併し、その根本になっている心持なり態度なりが此方のものとは大変に異っているように見えます。それは一面たしかに国民性から出ているものです。

 さきごろ中野重治が二つの短いアレゴリーを『改造』へ書いた。
 自分はよんでいないけれども、彼は先に「根」という、やっぱりアレゴリーの成功した作品を書いたそうだ。
 というと、つまり、『改造』に発表された方のはアンマリ成功していないということになる。作者の主観的な、古風な言葉でいえばある述懐というようなものは理解できる。が、作品は註つきでよませる物ではないから、あの二つは、いおうとすることを、はっきりした形で読者の心へ打ちこまないという点で失敗だった。特に「菊の花」の方は、主題のつかみかたがプロレタリア的な立場で見れば敗北主義くさいという、理論上の欠点ももっていた。
 だが、あれをよんで、自分は興味をもって二つのことを感じた。一つは、中野君の作品を批評する場合、みんなの合言葉みたいになってつかわれる「詩人」という言葉の内容についてだ。他の一つは、プロレタリア・アレゴリーというものは、難しいもんだな、アレゴリーと諷刺とは、プロレタリア文学の形式として、どっちが広汎な、階級的役立ちに利用され得るだろうか、ということである。

 宗達の絵の趣などは、知っている人には知られすぎていることだろうが、私はつい先頃源氏物語図屏風というものの絵はがきに縮写されているのを見て、美しさに深いよろこびを感じた。
 宗達は能登の人、こまかい伝記はつまびらかでないが寛永年間に加賀侯に仕え、光琳によって大成された装飾的な画風を創めた画家である。と辞典に短かく書かれてある。
 なるほど、小さい絵はがきに見るこの源氏物語図屏風にしろ、魅力をもって先ず私たちをとらえるのは、大胆な裡にいかにもふっくり優しさのこもった動きで展開されている独特な構図の諧調である。
 後年光琳の流れのなかで定式のようになった松の翠の笠のような形に重ねられる手法、画面の中央を悠々とうねり流れている厚い白い水の曲折、鮮やかな緑青で、全く様式化されながらどっしりと、とどこおるもののない量感で据えられた山の姿、それらは、宗達の絵の世界にあらわれて、まだちっとも使い古されていない珍らしさ、瑞々しさで活きている。
 大変親愛なのは、宗達がそのように背景をなす自然を様式化して扱いながら、その前に集散し行動している人々の群や牛などを、いかにも生気にみちた写生をもとにしているところである。